ヘロデ大王とヘロデ朝


■ヘロデ大王

ヘロデ大王は、共和政ローマ末期から帝政ローマ初期にかけて、ローマの承認のもとに王としてユダヤを統治した支配者です(在位:紀元前37年~紀元前04年)。

ヘロデ大王は、百年以上にわたってユダヤを支配してきたハスモン朝を倒し、ヘロデ朝を創設して、ユダヤとローマとの協調関係を構築しました。また、エルサレム神殿の大改築など、計画都市の実現に多くの業績を残しました。

ヘロデ大王は、純粋なユダヤ人ではなかったこともあって猜疑心が強く、身内を含む多くの人間を殺害しました。


■ヘロデ大王の支配地

ヘロデ大王の支配地の略地図を示します。

ユダヤ地方(エルサレム地方)はユダ王国、サマリア地方はイスラエル王国の故地です。サマリア人は、アッシリア捕囚後に残留イスラエル人と他民族とが混血した人々であり、ユダヤ人からは軽蔑されていました。

北のガリラヤ地方は異邦人のガリラヤと呼ばれ、ユダヤ人にとって辺境でした。

南のエドム地方は、ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノス一世が征服した新領地です。エドム人はユダヤ教へと改宗させられました。ヘロデ大王の父祖は、エドム地方の出身です。


■ハスモン朝末期のユダヤ情勢

ハスモン朝とは、紀元前166年にユダ・マカバイ(マカベウス)がセレウコス朝シリアに対して決起した後、紀元前140年頃から紀元前37年までユダヤを統治したユダヤ人の王朝です。

紀元前67年、大祭司であった兄のヨハネ・ヒルカノス二世がハスモン朝の王位を継承しますが、翌紀元前66年に、弟のアリストブロス二世が武力によって王位を奪取しました。

ヒルカノス二世の友人でエドム人の武将アンティパトロス(ヘロデ大王の父)は、ヒルカノス二世に権力の奪回を勧め、反撃の態勢を整えます。

両陣営は、オリエントへ進軍していたローマの将軍グナエウス・ポンペイウスに調停を求め、アンティパトロスはポンペイウスの支持を取り付けることに成功します。

紀元前63年、ポンペイウスはエルサレムを占領してアリストブロス二世を捕らえ、ヒルカノス二世を大祭司に復帰させます。ユダヤはローマのシリア属州の一部となり、ヒルカノス二世はローマとアンティパトロスの傀儡として在位することになりました。

紀元前47年、アンティパトロスはオリエントへ進駐していたガイウス・ユリウス・カエサルに取り入り、ユダヤの統治代理人に任命されました。アンティパトロスは、二人の息子ファサエロスとヘロデに、それぞれエルサレムとガリラヤの行政を担当させました。

紀元前43年、アンティパトロスが政敵に毒殺されます。ヘロデは犯人を捕らえて即座に処刑し、ファサエロスとヘロデの兄弟が共同でアンティパトロスの後継者となりました。

ヘロデは、ヒルカノス二世の孫娘マリアムネ一世(母はヒルカノス二世の息女アレクサンドラ、父はアリストブロス二世の息子アレクサンドロス)と結婚し、ハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していきます。


■ヘロデ朝の成立

紀元前40年、アリストブロス二世の遺児アンティゴノスが、そのころ東方から進出してきたパルティア王国の支持を得て、エルサレムに侵攻します。

大祭司ヒルカノス二世は捕らえられてパルティアへ連行され、ヘロデの兄ファサエロスは殺害されました。アンティゴノスは大祭司にして王という二重称号を持つハスモン朝最後の支配者として即位します。

ガリラヤにいたヘロデもアンティゴノスに命を狙われ、当時クレオパトラのもとにいたマルクス・アントニウスの援助を求めてアレクサンドリアへ逃れ、そこからローマに渡りました。

ヘロデはローマの元老院で支援を訴え、元老院は父アンティパトロスの代から続くローマへの忠誠を評価して、ヘロデに「ユダヤ人の王」の称号を与えました。

ヘロデは、マルクス・アントニウスが率いるローマ軍と共にユダヤに戻り、エルサレムはローマ軍の精鋭の前にあえなく陥落しました。

紀元前37年、ローマ軍の捕虜となったアンティゴノスは斬首されて、ハスモン朝は滅亡します。ヘロデはローマ皇帝に従属することを約束して、ついにユダヤの王となることができました(ヘロデ朝の成立)。

紀元前36年、前の大祭司ヒルカノス二世がパルティアからユダヤへ帰国します。

紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス派がオクタウィアヌス派に敗北します。アントニウスに味方したヘロデは、戦後、オクタウィアヌスに帰順しました。

図は、ジャン・フーケ作「ヘロデ大王のエルサレム占領」です。


■ハスモン朝の血統の抹殺

王位についたヘロデは、今や謀反の芽となりかねない前政権ハスモン朝の血をひくものたちを抹殺していきます。

紀元前37年、ハスモン朝最後の王アンティゴノスをローマ人によって処刑。
紀元前36年、この頃に妻マリアムネ一世の弟アリストブロス三世を暗殺。
紀元前30年、前の大祭司ヒルカノス二世をヘロデに対する陰謀を企んだとして処刑。
紀元前29年、妻マリアムネ一世を処刑。
紀元前28年、妻マリアムネ一世の母であるアレクサンドラを処刑。
紀元前07年、ヘロデと妻マリアムネ一世との間に生まれた自分の二人の王子アリストブロス四世とアレクサンドロスを処刑。

新約聖書『マタイによる福音書』二章には、「ヘロデ王」が新たな王(救世主イエス・キリスト)の誕生を恐れて二歳以下の幼児を虐殺させたという記述があります。この「幼児虐殺」の伝承は、紀元前07年にヘロデ大王がハスモン朝の血を引く二人の息子を処刑した事件に対応するという見解があります。

図は、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ作「幼児虐殺」です。


【参考】マタイによる福音書 2章1節~12節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て言った、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った、「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています、『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」。そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

【続き】マタイによる福音書2章16節~18節

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した、「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。


■ヘロデ大王の計画都市

ヘロデ大王は、計画都市の実現にすぐれた業績を残しました。人工港湾都市カイサリア、大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどは、ヘロデ大王の時代につくられた計画都市です。

ヘロデ大王はさらに、ヘレニズム君主として、シリアや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供しました。この行為はギリシア系住民の間でヘロデ大王の名を高めましたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになりました。

ヘロデ大王の名を不朽のものとしたのは、ソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築でした。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、ディアスポラ(国外離散定住)のユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになりました。

図は、ジェームズ・ティソ作「エルサレムおよびヘロデ神殿の復元」です。


■ヘロデ大王の後継者たち

紀元前04年にヘロデ大王が死去すると、遺言に従って息子のうちヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリッポス、ヘロデ・アンティパスの三人が後を継ぎました(分割統治)。ローマ帝国は、兄弟たちが父のように王を名乗ることは許しませんでしたが、領主としてユダヤを統治することを認めました。

ヘロデ・アルケラオス(ヘロデ大王と妻マルタケの息子)は、中心部であるユダヤ、サマリア、エドムを統治しましたが、失政を重ねたため紀元後06年ガリアへと追放され、アルケラオスの支配地はローマ帝国の直轄領となりました。この時、ユダヤ属州が新設され、カイサリアが州都となりました。

ヘロデ・フィリッポス(ヘロデ大王と妻クレオパトラの息子)は、バタネアやガウラニティスなどの北東部を与えられて、紀元後34年に死去するまで統治しました。

ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王と妻マルタケの息子、アルケラオスの弟)は、ガリラヤとペレアを与えられて統治しましたが、紀元後39年にローマ皇帝カリグラによってガリアへと追放されました。

ヘロデ・アグリッパ一世は、ヘロデ大王によって処刑されたアリストブロス四世の息子です。ヘロデ大王の孫に当たります。ローマ皇帝カリグラの親友でした。紀元後37年にフィリッポスの分割領(バタネア、ガウラニティス)の統治を任せられ、39年にアンティパスの分割領(ガリラヤ、ペレア)が加えられました。41年にローマ皇帝クラウディウスからユダヤ人の王の地位を認められ、アルケラオスの分割領(ユダ、サマリア、エドム)も与えられました。アグリッパ一世は44年に死去し、その支配地はローマ帝国の直轄領となりました。

ヘロデ・アグリッパ二世は、ヘロデ・アグリッパ一世の息子です。ヘロデ大王の曾孫に当たります。ローマ皇帝クラウディウスの宮廷で育ちました。紀元後48年にクラウディウス帝からユダヤの統治を認められました。ただし、支配地と権限は限定的で、実質的にローマ帝国の直轄支配が行われました。アグリッパ二世は第一次ユダヤ戦争の時にもローマに忠誠を示し、93年頃ないし100年頃に死去するまで、ヘロデ朝最後の統治者としての地位を保持しました。


■ヘロデ・アンティパスと洗礼者ヨハネ

ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王の後を継いだ三人の息子の一人です。ガリラヤとペレアを支配しました。ゲネサレト湖畔につくった都市をティベリアスと名づけてそこに住みましたが、もともと墓があったことからユダヤ人は汚れた土地として忌避しました。

ヘロデ・アンティパスは、新約聖書『マタイによる福音書』十四章で「領主ヘロデ」として言及されています。アンティパスは異母兄の妻であったヘロディアという女性を妻としましたが、洗礼者ヨハネがアンティパスの結婚を非難したため、捕らえて処刑したと記されています。洗礼者ヨハネの死は、紀元後30年ないし31年頃と考えられています。

ヘロデ・アンティパスに破滅をもたらしたのは、この妻ヘロディアでした。彼女の強い勧めにしたがってヘロデはローマ皇帝カリグラに「父ヘロデ大王のように王の位を与えてほしい」と願いました。カリグラ帝はこれを危険視し、39年に領主の座を剥奪してガリアのリヨンへ追放しました。フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ戦記』二巻に「ヘロデ・アンティパスは妻と共に配流先のヒスパニアで死んだ」と記しています。

図は、ピーテル・フランツ・デ・グレベル作「ヘロデの面前で説教する洗礼者聖ヨハネ」です。


【参考】マタイによる福音書14章 1節~12節

そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」。実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。


■ヘロデ・アンティパスとイエス・キリスト

新約聖書『ルカによる福音書』二十三章には、イエス・キリストが十字架にかけられた裁判の過程で、ユダヤ総督ピラトがイエスをヘロデ・アンティパスのもとへ送り、アンティパスがイエスを尋問したことが記されています。イエス・キリストの裁判は、紀元後33年頃と考えられています。

図は、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ作「ヘロデの前のキリスト」です。


【参考】ルカによる福音書23章4節~12節

ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。


■ヘロデ・アグリッパ一世のキリスト教徒迫害

ヘロデ・アグリッパ一世は、ヘロデ大王によって処刑されたアリストブロス四世の息子です。ヘロデ大王の孫に当たります。ローマ皇帝カリグラの親友でした。ローマ皇帝クラウディウスから「ユダヤ人の王」の地位を認められ、ヘロデ大王の死後に分割された支配地も回復されました。

ヘロデ・アグリッパ一世は、新約聖書『使徒言行録』十二章に「ヘロデ王」として言及されています。アグリッパ一世はファリサイ派に迎合してキリスト教徒を迫害しました。ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)は殺害され、ペトロは投獄されますが天使に救出されます。その後、アグリッパ一世は急死します。ヤコブの死は、アグリッパ一世の死と同年の、紀元後44年と考えられています。

図は、ドイツのバイエルン州バンベルクの旧聖ヤコブ聖堂参事会教会の天井画「ヘロデ・アグリッパの前でイエスの名を告白するヤコブ」です。


【参考】使徒言行録12章1節~11節

そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。ペトロは我に返って言った、「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」。

【続き】使徒言行録12章18節~23節

夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。


■ヘロデ・アグリッパ二世と使徒パウロ

ヘロデ・アグリッパ二世は、ヘロデ・アグリッパ一世の息子です。ヘロデ大王の曾孫に当たります。ローマ皇帝クラウディウスの宮廷で育ちました。ローマ帝国と親密な関係を維持して、ローマから派遣された総督と共にユダヤを統治しました。

ヘロデ・アグリッパ二世には、ベレニケとドゥルシラという二人の妹がいたことが知られています。アグリッパ二世は常にベレニケを帯同し、ユダヤ人たちに近親相姦の疑いを抱かせました。その妹ドゥルシラは、ユダヤ総督フェリクスの妻でした。

ヘロデ・アグリッパ二世は、新約聖書『使徒言行録』25章~26章に「アグリッパ王」として言及されています。アグリッパ二世は、妹のベレニケと共に新任のユダヤ総督フェストゥスをカイサリアに訪問した時、とらわれの身であったパウロの話を聞く機会を持ち、その言葉に感銘を受けます。これは、紀元後59年頃の出来事だと考えられています。

図は、ニコライ・コルニリエヴィッチ・ボダレフスキー作「使徒パウロの審理」です。


【参考】使徒言行録25章13節~14節

アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するためにカイサリアに来た。彼らが幾日もそこに滞在していたので、フェストゥスはパウロの件を王に持ち出して言った、「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます」。

【続き】使徒言行録25章22節~23節

アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いてみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。

【続き】使徒言行録26章24節~31節

パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った、「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」。パウロは言った、「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」。アグリッパはパウロに言った、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」。パウロは言った、「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」。そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。


■ユダヤ戦争

紀元後66年、ローマから派遣されたユダヤ総督フロルスがエルサレム神殿の宝物を持ち出したことをきっかけに、エルサレムで過激派による暴動が起こります。

反ローマの機運はユダヤ全土に飛び火し、事態を重く見たローマ皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に向かわせます。ウェスパシアヌスは息子ティトゥスと共に出動し、ユダヤの周辺都市を個別に撃破する作戦をとります。

ヘロデ・アグリッパ二世はウェスパシアヌスを支援するために二千人の弓兵および騎兵を送り、ローマへの忠誠を示しました。また、いくつかの戦闘で自らティトゥスに同行し、ガマラ攻城戦(67年)では負傷しました。

ローマ軍はサマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功しました。しかし、68年にネロ帝が自殺、69年に四人の皇帝が次々に即位するなどローマは大混乱に陥り、ウェスパシアヌスはエルサレム攻略を中断して、ローマへ戻りました。

69年12月、皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは懸案のエルサレム陥落を目指して、息子ティトゥスを攻略に向かわせました。

70年、ティトゥスが率いるローマ軍は、ユダヤ人の反乱軍が立て篭もっていたエルサレムを陥落させます。エルサレム市街のみならず、エルサレム神殿(ヘロデ大王が築いた第二神殿)も破壊されました。

エルサレム陥落後、アグリッパ二世は妹のベレニケとともにローマへ行き、そこで属州総督の資格となるプラエトル(法務官)の地位と追加の領地を与えられました。

エルサレム陥落後、なおも相当数のユダヤ人が、ヘロディオン、マカイロス、マサダなどヘロデ大王のつくった要塞によって抵抗を続けました。中でも、マサダへは約一千名のユダヤ強硬派が籠城しました。

ローマ側の将軍ルキウス・フラウィウス・シルバは、力攻めを行わずに、補給路を寸断して兵糧攻めを行いました。74年(ないし73年)にマサダ要塞に籠城したユダヤ人は餓死や集団自決によって全滅し、ユダヤ戦争は完全に終結しました。

66年から74年まで続いたこの戦争を「第一次ユダヤ戦争」と呼び、ローマ皇帝ハドリアヌス治世下の132年から135年にかけて再び勃発したバル・コクバを指導者とする反乱(バル・コクバの乱)を「第二次ユダヤ戦争」と呼びます。

バル・コクバの乱を鎮圧したハドリアヌス帝は、幾度も反乱を繰り返すユダヤ民族の記憶を消し去るため、それまでの「ユダヤ属州」という名前を廃し、それより千年も昔にユダヤ民族に敵対して滅亡したペリシテ人にちなんで「シリア・パレスチナ属州」と改名しました。

図は、フランチェスコ・アイエツ作『エルサレム神殿の破壊』です。


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