メディチ家


■メディチ家

メディチ家は、ルネサンス期にイタリアの都市フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭し、フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族です。先祖は、薬種問屋もしくは医師であったとされます。

メディチ家はその財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られています。

図は、メディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂(フィレンツェ)のフレスコ画『東方三博士の旅』です。作者はベノッツォ・ゴッツォリです。誕生したキリストを礼拝するためにベツレヘムへ向かう行列の中に、初期のメディチ家の人々が描かれています。


■ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360~1429年)は、フィレンツェの裕福ではない家庭に生まれます。一族のヴィエーリ・ディ・カンビオ・デ・メディチのもとで、銀行家としての資質を培います。

ジョヴァンニは、ローマにあったメディチ銀行の本店をフィレンツェに移し(1397年)、ローマやヴェネツィアなどへ支店網を広げます。

ジョヴァンニは、教会大分裂(シスマ)によりローマとアヴィニョンの対立が続くカトリック界に介入し、枢機卿バルダッサレ・コッサ(元は海賊ともいわれる醜聞に包まれた人物)を支援し、対立教皇ヨハネス二十三世として即位させます。

ジョヴァンニは、これによってローマ教皇庁会計院の財務管理者となり(1410年)、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功します。

対立教皇ヨハネス二十三世はコンスタンツ公会議(1414~1418年)で廃位となりますが、メディチ銀行は引き続きローマ教皇庁での地位を保ちます。

ローマ教皇マルティヌス五世はジョヴァンニにモンテ・ヴェルデ伯の称号を授けようとしますが、ジョヴァンニは政治的な配慮から爵位を辞退し、一市民の立場にとどまります。

ジョヴァンニが死去した時(1429年)、各地に移住したメディチ家の一族、教皇代理、諸外国の大使、フィレンツェの有力者達が参列し、メディチ家の社会的威信と一族の統合を知らしめたとされます。


■コジモ・デ・メディチ

コジモ・デ・メディチ(1389~1464年)は、ジョヴァンニの息子です。父の死後、メディチ家の当主となります(1429年)。通称では、コジモ・イル・ヴェッキオ(老人のコジモ)と呼ばれます。

コジモは、政敵によって一時フィレンツェを追放されますが(1433年)、翌年にはフィレンツェに帰還し、政府の実権を握ります。

対立の激しいフィレンツェ国内では、政治的に表面に出ることを避け、選挙制度を操作して政府をメディチ派で固めます。

対外的には、イタリアの強国(ヴェネツィア、ミラノ、ナポリ)との勢力均衡を図り、ローマ教皇庁との結びつきを強めます。こうした中で、西方教会と東方教会の合同公会議をフィレンツェに招致します(フィンレンツェ公会議、1439年)。

家業の銀行業も隆盛を極め、支店網はイタリア各地の他、ロンドン、ジュネーヴ、アヴィニョン、ブルッヘなどへ拡大します。メディチ家は、イタリアだけでなく、ヨーロッパでも有数の大富豪となります。

パトロンとしても知られ、美術ではフィリッポ・ブルネレスキ、ミケロッツォ、ドナテッロらを庇護しました。また、古代ギリシアの哲学者プラトンの思想に心酔し、人文主義者マルシリオ・フィチーノにプラトン全集の翻訳を行わせました。


■ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ

ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(1416~1469年)は、コジモの息子です。父の死後、メディチ家の当主となります(1464年)。通称では、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)と呼ばれます。

ピエロが当主となって間もなく(1466年)、反メディチ派と結んだフェラーラがフィレンツェを攻撃する事件が起こります。ピエロはこれを撃退し、反メディチ派を追放して、国内体制を固めます。しかし、病弱であったため、その三年後(1469年)に死去します。

ピエロは、パトロンとして独自の才覚を発揮しました。ベノッツォ・ゴッツォリ、サンドロ・ボッティチェッリなどを見出し、アルベルティ、ドナテッロ、フィリッポ・リッピなどに活躍の場を与えました。


■ロレンツォ・デ・メディチ

ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492年)は、ピエロ・ディ・コジモの息子です。父の死後、メディチ家の当主となります(1469年)。通称では、ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なロレンツォ)と呼ばれます。

ロレンツォは、パッツィ家の陰謀によって暗殺者に襲われます(1478年)。弟のジュリアーノは殺害されますが、ロレンツォはかろうじて逃れ、暗殺者を処刑するなど、反対派に容赦の無い弾圧を加えます。

パッツィ家と結んでいた教皇シクストゥス四世はパッツィ戦争を起こしますが、ロレンツォはこの危機も乗り切ります。ロレンツォの支配体制は確固としたものになり、フィレンツェ社会も総じて安定します。

以後、ロレンツォは各勢力が乱立するイタリアにおいて、優れた政治・外交能力を発揮します。財力と個人的な魅力を巧みに使い、利害の調整者として勢力均衡と現状維持をはかり、イタリア内の安定を実現します。

ロレンツォは、ボッティチェリ、ミケランジェロなど多数の芸術家を保護するパトロンとしても知られます。その時代は、フィレンツェ・ルネサンスの最盛期となりました。

しかし、銀行経営の内実は巨額の赤字であり、曽祖父ジョヴァンニと祖父コジモが築き上げたメディチ銀行は破綻寸前の状態でした。また、共和国の公金にも手を付けていたといわれます。

そうした折、メディチ家ゆかりのサン・マルコ修道院の修道士サヴォナローラが、フィレンツェ社会の腐敗やメディチ家支配を批判する説教を行い、多くの信奉者を集めていました。ロレンツォは、説教を禁止することなく、ひそかに関心を寄せていたとされます。四十三歳の若さで死の床に就くと(1492年)、サヴォナローラを自宅に招いて罪の告白を行ったとも伝えられます。


■ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ

ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472~1503年)は、ロレンツォの息子です。父の死後、メディチ家の当主となります(1492年)。

ピエロが当主となって間もなく(1494年)、フランス軍がナポリ王国を目指してイタリアへ侵攻します。ピエロは、抗戦せず、独断でフランス軍のフィレンツェ入城を許可します。この処置は市民の怒りを買い、メディチ家はフィレンツェを追放され、メディチ銀行も破綻します。この失態により、ピエロ・イル・ファトゥオ(愚昧なピエロ)という通称で呼ばれます。

ピエロはその後、チェーザレ・ボルジアの軍と共に行動しますが、戦闘で逃走中にガリリャーノ川で溺死します(1503年)。この事故により、ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)という通称で呼ばれます。


■ジョヴァンニ・デ・メディチ(教皇レオ十世)

ジョヴァンニ・デ・メディチ(1475~1521年)は、ロレンツォの息子です。父と教皇インノケンティウス八世の後押しにより、十六歳で枢機卿となります。兄ピエロ・ディ・ロレンツォの死後、メディチ家の当主となります(1503年)。

当主となった枢機卿ジョヴァンニは、ローマ教皇ユリウス二世の支持のもと、ハプスブルク家の援助を得て、スペイン軍と共にフィレンツェに侵攻し、メディチ家の復権を果たします(1512年)。

翌年(1513年)、ユリウス二世が死去すると、枢機卿ジョヴァンニは三十七歳の若さでローマ教皇に選出され、レオ十世として即位します。メディチ家は、フィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となります。

教皇選出後、フィレンツェには弟のジュリアーノを置き、間接的に統治します。ジュリアーノが死去すると(1516年)、後を継いだ甥(ピエロの遺児)のロレンツォをウルビーノ公に指名して領土拡大をはかりますが、ロレンツォの急死(1519年)により失敗します。

レオ十世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしました。しかし、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招きます。さらに、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大掛りな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、マルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作ります。

レオ十世は、四十五歳で急死します(1521年)。次の教皇にはハドリアヌス六世が選出されますが、僅か一年で死去します。後継として、レオ十世の従弟の枢機卿ジュリオが教皇に選出され、クレメンス七世として即位します。


■ジュリオ・デ・メディチ(教皇クレメンス七世)

ジュリオ・デ・メディチ(1478~1534年)は、パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児です。従兄である教皇レオ十世の下で、枢機卿として手腕を発揮します。レオ十世の死去から二年後、教皇クレメンス七世として即位します(1523年)。

教皇在世中の国際情勢は、イタリアを巡るフランスと神聖ローマ帝国との戦闘(イタリア戦争)、マルティン・ルターによる宗教改革運動、オスマン帝国によるヨーロッパへの圧力など、不安定な要素に満ちていました。

こうした中で、教皇クレメンス七世がフランス王フランソワ一世と同盟を結ぶと、教皇への報復として、神聖ローマ皇帝カール五世(兼スペイン王カルロス一世)の軍隊がローマに侵攻します。市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられ、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃します(ローマ略奪、1527年)。同時に、メディチ家も再度フィレンツェを追放されます。

クレメンス七世は、カール五世と和解し(1530年)、カール五世に神聖ローマ皇帝の戴冠を行います。メディチ家はフィレンツェに帰還して復権します。

クレメンス七世は、1534年にローマで死去します。死の数日前、フィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」の作成を依頼します。晩年の教皇は、天文学者コペルニクスの研究にも大きな関心を寄せました。


■アレッサンドロ・デ・メディチ

アレッサンドロ・デ・メディチ(1510~1537年)は、後に教皇クレメンス七世となるジュリオの息子(庶子)です。通称では、イル・モーロ(ムーア人)と呼ばれます。

アレッサンドロは、ローマ略奪の際に、それに乗じたフィレンツェ市民の反乱により一族と共にフィレンツェを追放されます(1527年)。

しかし、教皇クレメンス七世と神聖ローマ皇帝カール五世の和解が成立し、カール五世がフィレンツェを制圧してメディチ家が復権すると、十九歳でフィレンツェの統治者に指名されます(1530年)。

アレッサンドロは間もなく、神聖ローマ皇帝カール五世により、初代フィレンツェ公に任命されます(1932年)。その結果、フィレンツェ共和国は終わりを迎え、メディチ家はフィレンツェ公国の世襲制の君主となります。

アレッサンドロは、カール五世の庶出の息女であるマルゲリータ・ダズブルゴと結婚しますが(1536年)、子供ができないうちに、メディチ家の同族ロレンツィーノ・デ・メディチによって暗殺されます(1537年)。これにより、コジモ・イル・ヴェッキオ以来の家系が断絶し、傍系のコジモ一世がフィレンツェ公を継承します。


■黒隊長ジョヴァンニ・デ・メディチ

ジョヴァンニ・デ・メディチ(1498~1526年)は、メディチ家の傍系であるジョヴァンニ・イル・ポポラーノの息子です。幼い時に父母をなくしたため、親類の教皇レオ十世のもとで軍人になるための訓練を受け、教皇軍の傭兵隊長となります。

十八歳(1516年)でロレンツォ・デ・メディチの孫のマリア・サルヴィアティと結婚し、息子のコジモ(後のトスカーナ大公コジモ一世)を得ます。

イタリア戦争では、カール五世の皇帝軍に勇猛に立ち向かい、後年「ルネサンス最後の傭兵隊長」と賞讃されます。レオ十世が亡くなった時(1521年)、哀悼の意を表して黒い帯を記章に付け加えたため、バンデ・ネーレ(黒い帯)という通称で呼ばれるようになります。彼の部隊は、全員が黒い絹のリボンを付け、槍にも黒の槍旗を付けました。

ジョヴァンニは1526年、マントヴァ近郊の戦いで、敗血症により死去します。半年後にローマ略奪が起こった時、人々は「彼が生きていたら、これほどのことにはならなかったのに」と嘆いたと伝えられます。


■トスカーナ大公コジモ一世

コジモ・デ・メディチ(1519~1574年)は、黒隊長ジョヴァンニの息子です。フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺された後、十八歳でフィレンツェ公を継ぎます(1537年)。

コジモは、イタリア戦争においてフランスと対抗することを条件に、神聖ローマ皇帝カール五世からフィレンツェ公国の首長として承認されました。カール五世の庇護を得ることによって、メディチ家は権力を回復します。さらに、カール五世に協力する見返りとして、トスカーナおよびイタリアの神聖ローマ帝国からの独立性が高められました。

コジモは次に、フィレンツェと同じトスカーナ地方に位置する都市シエナに向かいます。カール五世の支援のもとにシエナの軍隊を破り、シエナの都市を包囲し、十五カ月後に陥落させます(1555年)。この包囲戦の結果、シエナの人口は四万人から八千人に減少したとされます。

四年後(1559年)、シエナ軍の最後の要塞がコジモの領土に併合され、コジモはシエナ公の地位を獲得しますます。さらに十年後(1569年)、教皇ピウス五世によって、コジモはトスカーナ大公に昇格します。

コジモの最大の功績は、首都フィレンツェの都市改造事業でした。ピッティ宮殿、政庁舎(現在のウフィツィ美術館)、ヴァザーリの回廊などを整備し、今日のフィレンツェの景観を作り上げます。また、ジョルジョ・ヴァザーリ、アーニョロ・ブロンズィーノなどを宮廷画家として迎え、再びフィレンツェのルネサンス文化を花開かせます。

コジモは、家庭的には妻と二人の息子をマラリアで失うなどの不幸に見舞われ、1574年に死去します。トスカーナ大公の地位は、息子のフランチェスコによって継承されます。


■メディチ家の断絶まで

トスカーナ大公としてのメディチ家は、初代コジモ一世(在位1569~1574年)、二代フランチェスコ一世(在位1574~1587年)、三代フェルディナンド一世(在位1587~1609年)の時代が絶頂期でした。

この間、一族の中から教皇レオ十一世(在位1605年)を輩出しますが、やがて、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体の国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退していきます。

七代ジャン・ガストーネ(在位1723~1737年)が没すると、後継者がなく、メディチ家は断絶します。ガストーネの遺言によって、トスカーナ大公国はハプスブルク=ロートリンゲン家に継承されます。

写真は、フィレンツェ中心部を遠望します。右側の塔のある建物がヴェッキオ宮殿(フィレンツェ市庁舎)です。宮殿の前にシニョリーア広場があります。


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