後北条氏(小田原北条氏)


■後北条氏(小田原北条氏)

後北条氏は、伊勢平氏の一族である伊勢新九郎盛時(北条早雲)を祖とする、関東の戦国大名です。早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代・百年にわたり、最大時には二百四十万石の版図を支配しました。

伊勢平氏の北条氏は、鎌倉幕府執権を務めた北条氏の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため、後北条氏と呼ぶようになりました。また、居城のあった小田原の地名から、小田原北条氏とも呼ばれます。


■伊勢氏の北条改姓

伊勢氏が北条氏に改姓したのは、二代氏綱の時とされます。初代の存命中に北条の名が使われたことはありませんが、慣例として、伊勢盛時も遡って北条早雲と呼ばれます。

伊勢氏は、室町幕府に仕えた身分の高い一族で、伊勢平氏という家格も大名として申し分ありませんでした。それでもなお北条の姓を選んだのは、かつて鎌倉時代に相模国を領有した執権北条氏と同族であることを顕示し、相模支配の正統性を主張するためだったとされます。

鎌倉幕府執権の北条氏は、平貞盛(桓武平氏国香流)の二男平維将の子孫を称し、初代執権北条時政の父である時方の代に伊豆国北条郷に赴任し、土着して北条氏を名乗ります。これに対し、伊勢平氏は、平貞盛の四男平維衡に始まる名門です。

家紋の「三つ鱗」は、桓武平氏の定紋「揚羽蝶」に準じる替紋で、北条・伊勢の両氏に共通します。後北条氏では、この正三角形の図形を直角二等辺三角形に変形させた「三つ盛鱗」を定紋としました。


■後北条氏五代の略年表

初代早雲は、室町幕府に仕えた伊勢氏の一員として特命を受け、駿河国へ下って伊勢氏の縁戚である今川氏親の駿河守護就任を実現し、伊豆国へ討ち入って十一代将軍足利義澄の母と兄の仇討ちを果たします。さらに、これら幕府公認の軍事活動を通じて勢力を拡大し、伊豆国と相模国を支配する戦国大名となります。

二代氏綱は、政治家としては父を凌駕し、北条家繁栄の基礎を築き上げたとされます。軍事面では、武蔵国や下総国への進出を図ります。

三代氏康は、関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残し、相模の獅子と呼ばれます。さらに、外交では武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、内政では民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮します。

四代氏政は、父の後を継いで勢力拡大に努め、最大版図を築きます。しかし、豊臣秀吉が台頭すると、外交策に失敗し、小田原の役を招きます。数ヶ月の籠城の末に降伏し、弟の氏照とともに切腹。戦国大名北条氏による関東支配が終焉します。

五代氏直は、父の存命中に家督を継ぎ、両頭体制のまま小田原の役を迎えます。秀吉に対して、父は強硬派、氏直は穏健派であったとされます。秀吉に降伏する際、氏直は自身が切腹することにより将兵を助命するよう嘆願します。


■北条早雲(初代)

北条早雲(伊勢新九郎盛時)の父は、伊勢氏のうち備中国に居住した支流で八代将軍足利義政の申次衆を務めた伊勢盛定、母は、京都伊勢氏当主で政所執事を務めた伊勢貞国の娘とされます。生年は従来、永享四年(1432年)とされていましたが、近年、康正二年(1456年)説が提唱されて有力視されつつあります。

応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わります。在京中に義忠は、伊勢盛定の娘の北川殿(早雲の姉)を見初めて結婚します。備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、正室であると見られています。康正二年(1456年)誕生説をとれば、伊勢盛時(早雲)が十一歳の頃になります。

文明五年(1473年)、北川殿は今川義忠の嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生みます。

文明八年(1476年)、今川義忠が遠江国塩売坂の戦いで討死し、幼少の嫡男龍王丸と、義忠の従兄弟である小鹿範満との間に家督争いが起こります。これに堀越公方と扇谷上杉氏が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ派遣します。この時、北川殿の弟で龍王丸の叔父である伊勢盛時(早雲)が駿河国へ下って調停を行い、龍王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とすることで紛争を決着させたとされます。

文明十五年(1483年)、伊勢盛時は九代将軍足利義尚の申次衆に召し加えられます。康正二年(1456年)誕生説をとれば、二十七歳の頃になります。

長享元年(1487年)、龍王丸が成人しても小鹿範満が家督を戻そうとしないため、伊勢盛時は再び駿河国へ下って兵を起こし、駿河館を襲撃して範満を滅ぼします。龍王丸は二年後に元服して氏親を名乗り、正式に今川家当主となります。功労者である盛時には、伊豆国との国境に近い興国寺城(もしくは石脇城)が与えられます。

延徳三年(1491年)、伊豆国で堀越公方の足利政知(八代将軍足利義政の異母兄)が没すると、長男の茶々丸が、政知正室の円満院とその子の潤童子を殺害し、強引に跡目を継ぐという事件が起こります。政知と円満院のもう一人の子である清晃は、出家して京にいました。

明応二年(1493年)、室町幕府管領の細川政元が十代将軍足利義材を追放し、清晃を十一代将軍として擁立します(明応の政変)。清晃は、還俗して足利義遐を名乗り、後に義澄と改名します。

同年、権力の座に就いた義遐は、母の円満院と兄の潤童子の仇討ちを、伊勢盛時に命じます。この頃に盛時は出家して早雲庵宗瑞と名乗ります。これは、新将軍の母である円満院の弔い合戦に臨む決意を表明したものとも推測されています。

早雲は興国寺城で作戦を練り、今川氏親からも兵を借り、伊豆堀越御所の茶々丸を夜襲します(伊豆討入り)。茶々丸は落ち延び、勝利した早雲は堀越御所の近くに韮山城を築いて居城とします。

明応三年(1494年)、関東では山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷上杉定正は早雲に援軍を依頼します。これは、早雲の関東進出の契機となります。

明応四年(1495年)、早雲は茶々丸の討伐を大義名分として、甲斐国に攻め込みます。また、山内上杉氏方に寝返った相模国小田原の大森藤頼を討ち、小田原城を奪取します。

明応七年(1497年)、伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を追い込んできた早雲は、南伊豆の深根城を落として、伊豆国を平定します。

明応八年(1498年)、早雲は甲斐国で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功します。その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出します。

永正十三年(1516年)、早雲は三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼし、相模国全土を平定します。

永正十五年(1518年)、早雲は家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正十六年(1519年)に死去します。康正二年(1456年)誕生説をとれば、享年六十四でした。


■北条氏綱(二代)

北条氏綱は、長享元年(1487年)に伊勢新九郎盛時(北条早雲)の嫡男として生まれます。永正十五年(1518年)に父の隠居により家督を継ぎ、翌永正十六年(1519年)に父が死去したため、名実共に二代当主となります。

大永三年(1523年)、氏綱は姓を伊勢から北条に改めます。また、この頃に居城を、伊豆国の韮山城から、相模国の小田原城に移します。

大永四年(1524年)、氏綱は、扇谷上杉朝興の家臣太田資高を寝返らせ、武蔵国の江戸城を攻略します(高輪原の戦い)。敗れた朝興は、河越城へ逃亡します。

享禄三年(1530年)、氏綱は、扇谷上杉朝興と多摩川河原の小沢原で戦い、これに大勝します(小沢原の戦い)。

天文六年(1537年)、氏綱は、朝興の後を継いだ若年の扇谷上杉朝定を攻撃し、武蔵国の河越城を奪取します。

天文七年(1538年)、氏綱は、小弓公方足利義明および里見氏らの連合軍と下総国の国府台で戦い、これに大勝します(第一次国府台合戦)。

こうして氏綱は、関東で武蔵国南部から下総国にかけて勢力を拡大する一方で、父早雲の代より主従関係にあった駿河国の今川氏親との駿相同盟に基づいて、甲斐国の武田信虎と甲相国境で争いました。しかし、今川氏の家督を義元が継承して甲駿同盟が成立すると、駿相同盟が破綻し、氏綱は今川氏とも抗争することになります。

氏綱は、政治家としては父を凌駕し、北条家繁栄の基礎を築き上げたとされます。戦国大名として検地を発案し、相模国で実施します。また、家臣団と領民の統制に尽力し、評定衆・奉行衆を設置します。さらに、豪族統制に強権を発動し、豪族領の治外法権を否定します。

天文十年(1541年)、氏綱は病に倒れ、死去します。享年五十五でした。後を、嫡男の北条氏康が継ぎます。氏綱は死の直前、氏康に五か条の訓戒状を残します。


■北条氏康(三代)

北条氏康は、永正十二年(1515年)に北条氏綱(二代当主)の嫡男として生まれます。天文十年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで三代当主となります。

天文十五年(1546年)、関東管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍八万が北条領に侵攻し、北条氏に奪われていた武蔵国の河越城を包囲します。氏康は八千の兵力で連合軍に夜襲をかけ、勝利します(河越夜戦)。

この夜戦で、上杉朝定が戦死し、扇谷上杉家は滅亡します。上杉憲政は上野国に、足利晴氏は下総国に遁走します。氏康は、関東における抗争の主導権を確保します。

天文二十一年(1552年)、氏康は、関東管領山内上杉憲政の居城である平井城を落として、上野国での優位を確立します。

天文二十三年(1554年)、氏康は、今川義元の嫡男今川氏真に娘を嫁がせ、武田信玄の娘を次男氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結びます(甲相駿三国同盟)。これにより、氏康は関東での戦いに専念できるようになります。

永禄元年(1558年)、関東管領上杉憲政は越後国に入って長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ります。これにより、北条氏は謙信と長く対立することになります。

永禄二年(1559年)、氏康は次男(長男は夭折)の氏政に家督を譲ります。これは、未曾有の大飢饉が発生したため、代替わりによる徳政令の実施を目的としたものとされます。氏康はその後も小田原城本丸にとどまって、政治・軍事の実権を掌握します。

永禄三年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれ、今川氏の勢力が衰退します。同年、上杉謙信が関東管領上杉憲政を奉じて関東へ侵攻します。

永禄四年(1561年)、謙信は鎌倉を攻略し、十万余の大連合軍を率いて小田原城を包囲します。小田原城の防衛は堅く、謙信は小田原城から撤退。鎌倉に兵を引き上げ、鶴岡八幡宮の社前で関東管領に就任します。

永禄十一年(1568年)、武田信玄が義元没後の今川氏の衰退に乗じて駿河へ侵攻します。これにより、甲相駿三国同盟は破棄されます。

永禄十二年(1569年)、氏康は、武田信玄に対抗するため、上杉謙信と越相同盟を結びます。

同年、武田軍が武蔵国へ侵攻し、南下して小田原城を包囲します。氏康が徹底した籠城戦を構えたため、武田軍はわずか四日後に撤退します。氏康は撤退する武田軍に対し氏政を出陣させ、三増峠での挟撃を謀りますが、挟撃は失敗します。

元亀元年(1570年)、越相同盟に基づいて氏康七男の三郎が上杉謙信の養子となり、三郎に上杉景虎の名が与えられます。

元亀二年(1571年)、氏康は小田原城において没します。享年五十七でした。氏康は、善政で民衆に慕われ、その死が小田原の城下に伝えられると、領民は皆泣き崩れ、領主の他界を悼んだと伝えられます。


■北条氏政(四代)

北条氏政は、天文七年(1538年)に北条氏康(三代当主)の次男として生まれ、氏康の長男が夭折したために世子となります。永禄二年(1559年)に氏康から家督を譲られ、北条家の四代当主となります。氏康存命中は、氏康・氏政の両頭体制が続きます。

元亀二年(1571年)、氏康が病没すると、氏政は父の遺言に従って、武田信玄との甲相同盟を復活させ、同時に上杉謙信との越相同盟を破棄します。

元亀四年(1573年)、武田信玄が織田信長討伐の途上で病死します。家督を相続した武田勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿します。

天正三年(1575年)、長篠の戦いにおいて武田軍は織田・徳川連合軍に大敗を喫します。武田勝頼は、甲相同盟を強化するため、氏政の妹を正室に迎えます。

天正六年(1578年)、上杉謙信が死去すると、謙信の甥である上杉景勝と、北条氏政の弟で謙信の養子である上杉景虎との間で後継者争いが起こります(御館の乱)。氏政は、弟の景虎を支援し、同盟者で妹婿の武田勝頼にも援軍を依頼します。当初、勝頼は景虎を支援しますが、景勝から黄金を贈られて景勝支持に転じます(甲越同盟)。その結果、御館の乱は景勝の勝利に終わり、景虎は自害します。氏政は、甲越同盟の成立に対応して、甲相同盟を破棄します。

天正八年(1580年)、氏政は石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ます。これは、同じく織田家との和睦・同盟を画策した武田勝頼に対抗して先手を打った、高度な外交とされます。

同年、氏政は次男(長男は早世)の氏直に家督を譲ります。これは、氏直と信長の娘との婚姻によって、信長との同盟の強化を図ろうとしたものとされます。氏政は、父氏康に倣い、なおも北条家の政治・軍事の実権を掌握します。

天正十年(1582年)、織田信長の嫡子織田信忠を総大将、滝川一益を軍監とした軍勢が武田領攻略を開始します。氏政は、これに呼応して駿河の武田領に侵攻します。

同年、天目山の戦いで武田勝頼は正室の桂林院(北条氏政の妹)と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡します。甲斐の遺領は信忠軍団随一の功労者である河尻秀隆、信濃の一部と上野の西部は滝川一益に与えられ、一益は関東管領を自称します。北条氏への恩賞は無く、氏政は織田方に不信感を募らせます。

同年、京都本能寺において織田信長が明智光秀の謀反により横死します(本能寺の変)。信長の死を知った氏政は、織田家との同盟を破棄し、氏直が率いる五万六千の大軍を上野国に侵攻させます。北条軍は、滝川一益との決戦に大勝します(神流川の戦い)。

この後、氏直が率いる北条軍は信濃国に進出し、甲斐国に侵攻してきた徳川家康と対陣します(若神子の戦い)。戦線は膠着し、甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とし、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立します。

天正十三年(1585年)、氏政は本格的に下野侵攻を開始し、下野の南半分を支配下に置きます。また、常陸南部にも勢力を及ぼします。

こうして、北条氏の領国は伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、さらに下野・駿河・甲斐・常陸の一部も領有しました。これによって、二百四十万石とされる北条氏の最大版図が築き上げられます。しかし、前途には、明智光秀を討ち、織田信長の天下一統事業を継承した豊臣秀吉との対立が待っていました。


■北条氏直(五代)

北条氏直は、永禄五年(1562年)に、北条氏政(四代当主)の次男として生まれます。母は、武田信玄の娘で氏政正室の黄梅院です。兄が早世したので世子となります。

天正八年(1580年)、父から家督を継いで北条家の五代当主となりますが、実権はなおも父の氏政が握っていました。

天正十年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死すると、氏直は大軍をもって上野国へ侵攻し、織田家家臣の滝川一益を駆逐します(神流川の戦い)。さらに、信濃国へ進出し、甲斐国へ侵攻してきた徳川家康と対陣します(若神子の戦い)。

氏直は、甲斐国は祖父(武田信玄)の遺領であるとして甲斐領有を強く望みますが、戦線は膠着し、甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで和睦が成立します。

天正十一年(1583年)、前年に結ばれた徳川氏と北条氏の同盟に基づいて、家康の娘の督姫が氏直に嫁ぎます。

天正十三年(1585年)、豊臣秀吉が関白宣下を受けます。翌年、秀吉は豊臣の姓を賜って太政大臣に就任し、豊臣政権が確立されます。

天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が関東惣無事令を発令し、私戦が禁止されます。北条氏ではこの頃から、秀吉との戦いを想定して、小田原城と城下町を包みこんだ大外郭(惣構)を構築するなど、軍備増強に努めます。

天正十六年(1588年)、豊臣秀吉は、聚楽第に後陽成天皇を迎えて華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせます。

北条氏政・氏直親子も秀吉から聚楽第行幸への列席を求められますが、父の氏政がこれを拒否します。北条氏内部では、強硬派の氏政・氏照(氏政の弟)と、穏健派の氏直・氏規(氏政・氏照の弟)が対立したとされます。

京では北条討伐の風聞が立ち、北条氏も臨戦体制を取りますが、徳川家康の仲介によって北条氏規が名代として上洛したことで、北条・豊臣間の関係は一時的に安定します。

天正十七年(1589年)、北条家家臣の猪俣邦憲が上野国において真田昌幸の支城である名胡桃城を奪取するという事件が起こります。豊臣秀吉は、名胡桃城奪取は私戦を禁止した惣無事令違反であるとして、北条氏を糾弾します。氏直は弁明を図るとともに、徳川家康に取り成しを依頼しますが、家康は秀吉から小田原攻めに関する軍議に出席するよう求められて、すでに上洛していました。

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めが始まります。氏政・氏直は、領国内に動員令をかけるとともに、小田原城をはじめとする各支城を修築し、さらに野戦の場合を想定して、箱根の屏風山等の陣場を巡検します。しかし、緒戦で山中城が落城し、小田原城に籠城することになります。

二十二万の豊臣軍は、小田原城を完全包囲するとともに、下田城・松井田城・玉縄城・岩槻城・鉢形城・八王子城・津久井城等の支城を次々と陥落させます。

籠城は三ヶ月に及びます。氏直は、和議を結ぶことを決意し、秀吉方武将の滝川雄利の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏します。

秀吉は氏直の申出について、感じ入り神妙としたものの、氏政・氏照に切腹を命じます。氏直は、義父の家康の嘆願もあり、秀吉から助命されて紀伊国の高野山に登ります。


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