山下公園(撮影:2009年4月27日)
1)横浜市中区。大さん橋ふ頭から、山下公園を望みます。
2)前画面の左へ移動。山下公園に係留された氷川丸を望みます。
●横浜市『山下公園』
昭和五年(1930年)三月に開園した山下公園は、横浜の公園の中で一番知られているといってもよいでしょう。
関東大震災の復興事業として市内の瓦礫などを大正十四年(1925年)から四年がかりで埋立て、上部を良質な土で覆土して造成が行われ、公園の基本的な形ができあがりました。
当時は、現在の沈床花壇の部分が船溜まりになっており、現在も氷川丸の横にある小さな橋がそのなごりをとどめています。
開園五年後の昭和十年(1935年)三月には復興博覧会が行われ、その船溜まりでは鯨が泳ぎ、今でいうパビリオンが建ち並び、たいへんな賑わいを見せたそうです。
戦後は米軍に接収されましたが、昭和二十九年(1954年)から段階的に解除され、昭和三十六年(1961年)には再整備が完了し、ほぼ現在の姿となっています。
その後、昭和六十三年(1988年)に行われた横浜博覧会に合わせ、公園の東側に地下駐車場と上部の公園を整備しました。
人形の家の設計を行った坂倉設計の協力により、六つの大陸へのびる道をデザイン化した世界の広場と、バルセロナのグエル公園を想わせるカスケードのある楽しい大階段などが整備され、新しい魅力をつくっています。
山下公園には、数多くの記念碑などがありますが、代表的なものはサンディエゴ市から贈られた「水の守護神」、童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子像」「かもめの水兵さんの歌碑」などです。
公園の西端には在日インド人協会から昭和十二年(1937年)に寄贈されたインド水塔があります。横浜市の四代目建築課長鷲巣昌氏により設計され、細部まで緻密なデザインのこのモニュメントは、横浜の近代建築として価値の高いものです。
3)公園西端の「インド水塔」。
4)海沿いの遊歩道。
5)山下公園から、横浜みなとみらい21方面を望みます。
6)氷川丸。
7)『氷川丸』説明板。
氷川丸は、日本郵船のシアトル航路の新鋭船として1930年4月、三菱重工業横浜造船所で建造されました。
太平洋戦争中は病院船、戦後は引き上げ船等として従事の後、1953年7月、我国唯一の外航客船としてシアトル航路に再びデビューしました。本船は戦前戦後を通じて248回太平洋を横断しています。
1961年5月、横浜開港100年記念事業の一つとしてこの地に係留されて以来、マリンタワーと共に、山下公園の、そして横浜港のシンボルとして市民に親しまれています。
8)「日米友好ガールスカウトの像」。
9)「日米友好ガールスカウトの像」。
10)「芝生広場」。
11)「赤い靴はいてた女の子像」。
12)「赤い靴はいてた女の子像」。
13)西洋理髪発祥之地碑「ZANGIRI」。
14)「かもめの水兵さん歌碑」。
15)フィリピン協会『リカルテ将軍記念碑』
アルテミオ・リカルテは1866年10月20日、フィリピン共和国北イロコス州バタック町に生る。1896年、祖国独立のため挙兵、1915年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町149に寓居す。
1943年、生涯の夢であった祖国の独立を見しも、80歳の高令と病気のため、1945年7月31日、北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。
リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。
16)「芝生広場」と「中央広場」。
17)「中央広場」の「水の守護神」。
18)「中央広場」の「水の守護神」。
19)「沈床花壇」。公園の東側を望みます。
20)「沈床花壇」。公園の西側を望みます。
21)「沈床花壇」の前にある日時計。
22)「石のステージ」と「水の階段」。
23)「水の階段」の上にある「世界広場」から、公園の西側を望みます。
24)公園東端の「世界広場」。
25)ポーリン橋から、公園の東口を望みます。奥は「世界広場」です。
26)「横浜人形の家」の前にある「青い目の人形像」。ポーリンさんです。
山下公園は、港の見える丘公園とペアで、かながわの公園50選の一つに選定されています。
写真96「港の見える丘公園」もご参照ください。
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